米国では、1910年のフレックスナー報告によってオステオパシーに科学的根拠を求める動きが強まりました。
1929年の薬理学導入と、それに続く「医学化」の動きは、現在の米国でDO(オステオパシー医師)がMD(一般の医師)と完全に同等の法的権利を持つきっかけとなりました。
しかしそれは同時に、創始者アンドリュー・テイラー・スティルが掲げた
「薬物に頼らず、解剖学と徒手医学によって自然治癒力を引き出す」
という本来の哲学からの決別でもありました。伝統を重んじる人々にとって、この方向転換は以下のような意味を持っていました。
哲学の形骸化:「西洋医学の敗北」を補うための独自の哲学だったはずが、西洋医学を主流に据え、オステオパシー(OMT)を単なる「オプション(付け足し)」にしてしまった。
アイデンティティの喪失:医師と同じ薬を処方し、同じ手術をするようになれば、それは「オステオパシー」という独自の医療ではなく、ただの「少し手技ができる西洋医」ではないかという危機感。
実際、この変革以降、アメリカのDOカレッジでは手技療法(OMT)に割かれる時間や情熱が徐々に減少していきました。商業的・政治的な「生存」と引き換えに、純粋な「魂」を失ったという意味で、1929年は「アメリカの伝統的オステオパシーが死んだ日」であり、同時に「現代オステオパシー医学(医師免許)が生まれた日」という、最大のパラドックス(矛盾)を抱えた転換点と言えます。
1929年のカリキュラム大改定の裏には、「政治的生存権」をかけた極めてシビアな背景がありました。当時、アメリカの医療界は現代の医学・薬学を中心とする主流派(医師側)によって、急速に法整備と市場の独占が進められていた時代です。その中でオステオパシー(DO)が生き残るために直面していた、主な3つの政治的背景があります。
1. AMA(米国医師会)による「カルト(異端)扱い」からの脱却1920年代、主流派であるAMA(米国医師会)は、オステオパシーやカイロプラクティックといった手技療法を「科学的根拠のないカルト(異端のセクト)」として激しく批判し、排斥しようとしていました。特に1923年、AMAはオステオパシーの有効性を公式に完全否定します。このまま「薬を一切使わない純粋な徒手医学」のポジションに留まり続ければ、社会的な信用を失い、法的に禁止されかねないという強い危機感がありました。
2. 州法における「完全な医師免許」の獲得競争アメリカでは医療のライセンス(医師免許)の権限は各州の政府が握っています。州の立法機関(政治家たち)から「一般の医師(MD)と同等の診断権や、外科手術、処方権を持つ医師」として認めてもらうためには、「MDと同じだけの科学的知識(薬理学や病理学)を学んでいること」を証明する必要がありました。政治家や法学者から「薬理学を学んでいない者に、完全な医師の権利は与えられない」と突きつけられたことが、カリキュラム変更への直接的な引き金となりました。
3. 軍医としての採用(国防上のステータス)当時、アメリカが戦争(第一次世界大戦など)に突入した際、オステオパシー医師(DO)は「正規の医学教育を受けていない」とみなされ、軍医として従軍することが認められませんでした。これは職能団体として非常に大きな政治的屈辱であり、国家に「正規の医学」として認めさせるためには、教育カリキュラムを西洋医学基準に均質化するしかなかったのです。
結末:政治的な「勝利」と、哲学の「死」この政治的な立ち回りの結果、アメリカオステオパシー協会(AOA)は目論見通り、全ての州でMDと同等の「完全な医師免許」を勝ち取ることに成功します。しかしこれは、政治的な生存権(医師としての特権と地位)を得るために、創始者の哲学を差し出すという「悪魔の取引」でもありました。
オステオパシーの夜明けへと続く